本当に面白いかどうかはわかりませんが、鉄道の写真を中心にSNSに投稿した
ところ、予想外の結果や新しく分かったことなどをまとめました。内容は全国的な
もので鉄道車両に限りません。
この話題についてはX(旧ツイッター)で2回ほどアップして話題を呼んでいたのですが、このコーナーにはアップ済みと勘違いをしておりましたので、ここで大変遅らばせながらアップいたします。 |
これは東京湾アクアラインのできる前の話です。 当時の東京湾には日本カー・フェリーの市原航路という川崎と市原を70分で結ぶ、木更津航路とは別の路線がありました。 1965年から1974年まで10年間ほど就航していたが74年に廃止となっています これはS43(1968).7に乗船したときの記録です。 上の写真は市原のフェリー乗り場を出発して川崎に向かう時のものです。当初Xにアップしたときにはこの写真が川崎浮島のものと勘違いをしておりました。 市原の乗り場は養老川の河口で写真の奥に川が続いております。 |
これは途中で川崎側から来たフェリーとすれ違ったときに写したものです。 Xにアップして多くの方が木更津航路については知っており利用したとのコメントをいただきましたが、市原航路についてはご存じなかった方が大半でした。 この市原航路の写真についてはネットでもほとんど知られていなくて大変貴重な記録となりました。 |
既に首都圏からは撤退した211系ですが、211系のトイレ付きの車両の車端に接する部分の座席だけが写真のように妻板を背にする向きになっています。これはトイレを出るときに乗客同士が目を合わさないようにするための配慮だったようです。無理やり向きを変えた形なので窓側の座席はかなり窮屈そうです。 鉄道スリット写真は車両の片側全側面が撮影できることから、普通の写真ではなかなか見ることができない列車側面に関するいろいろな情報を得ることができますが、今回は列車側面ではなく窓の内側の車内に関する情報で、このような情報は通常は車内の撮影でしか得られないものです。 |
また、この座席はロングシート部を90度向きを変えて2人分を切断して配置したもので本来のクロスシートではないようです。また、向かいがトイレなのでトイレ使用時に消毒薬のようなにおいも感じることがあるようです。 しかしこのようなシートでも隅の席でありこの席を好んで座る方もおられるようです。 |
なお、このトイレ脇のクロスシート席は211系だけでなくE231系、E233系にも一部引き継がれているようです。また、この席の元祖というべきものはキハ35にあったようです。 |
中央西線、紀勢線、伯備線の特急として投入された381系は国鉄時代に新規電化された区間に導入された振り子式車両のため、新規電化工事でパンタグラフが架線から離線しない対策がとられました。つまり車体が傾く場合も傾かない場合も想定した位置に架線を張るなどして離線を防いでいたのです。そこでこの車両がこの対策をしていない線区を走る場合には車体を傾ける装置が働かないようロックをしていました。 |
これに対しJR化後に導入されたスーパーあずさ等の振り子式車両では既存の架線が使えるようパンタグラフが台車直結の支持台に載せる方式が考案されました。 これにより車体の傾きにかかわらず台車と直結したパンタグラフを架線と接触する位置のずれが少ないようにしたのです。 また、写真はありませんが四国の8000系電車は屋根上のパンタグラフの基台と台車をロープで結ぶことにより車体の傾斜に応じて屋根上のレールに載せた基台を左右に移動させることでパンタグラフの架線からの離線を防ぐ独自な方法をとっていました。 |
昭和42年8月頃に高崎駅9番ホームで写した上信電鉄の車両です。この古い車両の形式や出自など不明でしたが、ネットにアップすることで解明できました。 当初デハ11だと思いましたが、パンタが無いことや運転室脇に手荷物と書かれていることなどからクハニ11と判明しました。出自は東武鉄道の半鋼製車を譲り受けて改造されたもののようでクハニは10-14まで5両ありました。他は昭和56年に廃車のようですが、この11号車だけ廃車年月日が不明だそうです。このクハニ11の写真はどの雑誌にも未掲載で貴重なもののようです。 |
電車の前照灯は夜間走行時に運転士のために電車の前方を照らす働きばかりでなく、昼間時間帯にも駅職員や保線の人たちのために遠方から来る電車の早期発見に役立つという重要な役割もあります。 東海道新幹線については開業当初からこの前照灯の常時点灯がなされていましたが、これも近づいてくる列車の早期発見のためでした。 この写真は平成4年に川口駅付近で撮影したものですが、115系も103系もヘッドライトを点灯して走っています。在来線のヘッドライトの常時点灯がいつから行われていたかについて定かではないのですが、国鉄からJRとなって、さらに平成になってからと思われます。 なお、私鉄では昼間の常時点灯を昭和の末期に名鉄が最初に行っていたとのことです。 また、その後大手私鉄から地方の中小私鉄にも常時点灯が広がっていったようです。 |
485系の交直両用特急型電車は昭和43年に登場し、全国の交流・直流電化区間で活躍しました。写真は東北本線の山形までを結ぶ特急やまばとのスリットカメラで撮影した12両編成の一部でその5、6号車に中間電動車のトップナンバーが組み込まれていたことが判明しました。またこの車両の前には同様に485と484の2号車も連結されていました。 |
さて485系車両として最後まで残っていた「リゾートやまどり」が2022年に引退したので、485系の特急型車両の現役車両は全て消滅することとなりました。 この写真をX(旧ツイッター)にアップしたところフォロワーの方からこのトップナンバー車を含めた485系4両が長い間常磐線の湯本駅に留置されていたという情報を得ました。この車両は国鉄時代からトップナンバー車であることから保存の目的で置かれていたとのことです。しかし鋼製車であることから年々朽ち果てていき保存車両として修復不可能な状態になったので残念ながら1997年に郡山の工場で全て解体されたとのことです。大宮の鉄道博物館がオープンする10年前のことです。 現在大宮の鉄道博物館には485系車両としてクハ481-26とモハ484-61のみが展示されています。 |
これは名鉄7000系パノラマカーの展望車に設置されたニキシー管による列車速度計です。 この写真はパノラマカーが最高速度の時速110kmを出した時に撮影したもので、このように110kmのニキシー管による速度表示を綺麗に写せた写真は数少ないようです。 また、表示の右端の「Km」の表示についても、通常はニキシー管でなく「Kmの文字を書いたラベル」が張り付けられていました。 この写真は昭和42年の年末に撮影したものですが、その後は昭和50年代に入るとこのニキシー管による表示装置も故障が多くなり、故障のたびに次々と取り外されたようです。 このような高速で走り振動の多い場所での使用はニキシー管にとってはかなり厳しい環境だったようです。 |
まだ照明装置も電球や蛍光灯が主流での時代には、このニキシー管のオレンジの数字の表示は近未来的なデバイスとして人気があったようですが、その後の技術革新により液晶やLEDによる表示装置が出現することでニキシー管による表示装置は表舞台から姿を消してしまいました。 現在ではうどん等のレトロ自販機でまだ使用されているようです。ところが最近になりニキシー管のオレンジの表示に一定の人気があるということで、ニキシー管自体の小規模ながら再生産が行われるようになったとのことです。元々、ニキシー管自体は旧ソ連すなわちウクライナなどで大量に作られた時代がありました。我が国に残る中古のニキシー管は殆ど旧ソ連時代に作られたもののようです。 |
これは高校生頃の思い出として自分の中に残っていた記憶を基にお話しするもので、当時この区間を乗車した方であれば誰でも覚えているような話ではありません。 自分は 昭和39年頃品川まで京急を使って高校に通学していました。 電車は平和島駅を出るとどんどん加速し隣の大森海岸駅まで加速し続けていました。高速で大森海岸駅のホームを過ぎると上り坂となり、その後第一京浜を跨ぐ鉄橋を渡りますが、電車は坂を登り切るあたりで大きく減速していました。 それは線路が鉄橋付近でカーブしていたのと鉄橋付近の線路にはカントが殆どつけられていなかったので減速せざるを得なかったのです。 現在はコンクリート橋に架け替えられているので電車はカントの付いた曲線の線路を減速することなく高速運転しています。 |
平和島から 大森海岸駅までは昭和48年、立会川駅は平成元年に高架化工事が終了しているのでこの立体交差区間についても昭和の末の頃までにコンクリート橋の工事が完了していたと思われます。 |
昔の電車は、普通に戸袋窓があり妻窓もありました。さらに京急の電車は窓が大きいので余計明るかったようです。最近の電車は妻窓や戸袋窓は全て無くなって広告の張ってある壁になってますね。それもあって一日中照明をつけるようになったのですね。 50年以上前の京急電車の車内の様子をご覧ください。京急に限らず昔の通勤型電車ではこのように昼間は基本的に消灯しているものでした。それがいつ変わったかというと電鉄会社や路線によっても異なり、はっきりした時期はないようです。 |
これは昭和42年頃に撮影した京急旧1000形の車内ですが、この写真と記事を投稿したところいろいろな反響がありました。 まず、通勤電車が昼間に常時点灯となったのはこの車体構造の変化だけではなかったということです。 |
JRの車掌をやられていた方からのお話では、以前には山手線などでは昼間帯室内点灯箇所というものがあって周りに高いビルが増えて橋上駅も多くなったので、どんどんとその点灯箇所が増えていったそうです。また、夏場ではまだ冷房のない車両もあり点灯による発熱による車内温度上昇防止のために消灯を行ったようです。さらにJRでは戸袋窓等が無くなった205系通勤型電車の登場で常時点灯化していったのではないかということでした。下の写真はJR山手線の205系電車で、戸袋窓や妻窓がないのが分かります。 |
この電車は115系の800番代の車輛ですが、写真を見てパンタグラフを搭載した屋根が少し低くなっているのがお分かりになりますか。この低屋根構造は中央東線の狭小トンネルを問題なく通過するためのものです。中央東線の高尾から先は蒸気機関車時代に掘削された狭小トンネルであるため大型のパンタグラフを持つ車両が通過するには支障がありました。そこでパンタグラフの設置された部分の屋根を低くすることで狭小トンネルに対応したのです。115系以外でも中央東線で使われる101系や164系などにも低屋根構造はありました。 |
その後、パンタグラフの改良により低屋根構造でなくても狭小トンネルに対応できるようになりました。そこでパンタグラフを搭載した車両について狭小トンネルに対応した車両であるかが一目瞭然にわかるよう車両番号の左側に対応している車両について「◆」の印をつけることになりました。 |
ここは東海道新幹線の岐阜羽島駅でその先に見えるのが名鉄羽島線の新羽島駅です。この駅は羽島線の終点駅で画面左側に架線とそれを支える支柱が1本立っているのが見えます。写真では見えませんが、線路も画面中央辺りでなくなっていてその辺りに車止めが設置されていました。 2002年の1月にこの場所で電車の暴走事故が起きました。画面右から来た電車が当日降り積もった雪のためブレーキが利かなくなり、暴走して車止めを越えて左側の高架線の端の壁に激突して電車の運転部が高架線からはみ出した状態で止まり、墜落を免れました。 事故後の復旧工事で電車の停車位置を右側後方にずらすとともに、高架線の端にあって事故によりなぎ倒された架線の支柱も写真の位置にまで移動されました。 何気なく新幹線の車内から写した写真ですが、過去には隠された出来事があったのです。 |
現在の六郷川橋梁で東海道線と京浜東北線の間が大きく開いている理由についての説明です。 |
写真のように昭和42年4月末は東海道線の線路は共用で横須賀線の113系、スカ色の電車が走っていました。この時すれ違う103系の電車を見ても東海道線と京浜東北線の線路の近さが分かります。 |
当時既に京浜東北線の外側に新しい橋梁が建設中で、完成後に京浜東北線を新しい橋梁に移しました。 その後、手前の東海道線を奥の京浜東北線に移し、東海道線の古い橋梁を壊して新しい橋梁に建て替えてから東海道線を新橋梁に戻し、最後に京浜東北線の古い橋梁を壊したため、その古い橋梁のあった長い跡地分ができました。 |
昭和38年の京都修学旅行の往路の電車の車窓から小型フィルムカメラで車窓を撮影していたが、そのうち静岡県内走行中に対向列車が来るのが見えたので目の前に来た時にシャッターを押そうと身構えシャッターを切ったところなんと目の前に来た機関車を写すことができたラッキーなシャッターチャンスだった。(左の鉄橋のコマは無関係) 写真の機関車の先頭部はぶれて番号がはっきり読めなかったが、「EF58-157」と読めた気がしてネットで検索したところ、なんとこの番号はリニア鉄道館で現在展示されている機関車と同じだった。 |
そこでネットにアップして「EF58-157?」としてコメントを求めたところ、リニア鉄道館に展示中の機関車と比較してよく似ているが、屋根の傾斜とステップ部の形状が異なるのでこの機関車が「EF58-167」ではないかというコメントをいただいた。 確かによく比較するとステップの形状が異なっていた。また、ぶれていた十の数字は5と6は似ていて、EF58-167という車両も同様に在籍していたことがわかったので、この機関車は「EF58-167」が正しいようだ。 |
この上下のスリット写真は平成12年12月に高田馬場-新大久保間の同じ場所で埼京線205系を撮影したもので、上は「快速:恵比寿行」、下は新宿止まりだが幕表示は早めに変えた「大宮」となっていた。現在のE233系の液晶表示ではこようなことはなくなったのだろうかとツイッターで呟いた。 |
このツイートとしては、高田馬場辺りで既に大宮表示となっているのを何度も見たというものがあった。幕式の場合、所定の表示になるまでモーターでロールの幕を回すという作業となるため、場合によっては結構時間がかかるので、池袋を出てすぐ幕を回すというものだった。205系も側面表示がLED化された車両もあったようだが、その時も結構手前で大宮表示をしていたようだ。 |
さて埼京線では205系が引退してE233系7000番台となったが、E233系ではフルカラー液晶表示だが、走行速度が時速60Kmwo超えると自動的に側面表示が消えてしまうためこの新大久保駅付近では液晶表示の写真撮影ができない状態である。また、液晶表示では表示が変わるまでの時間が短いことから、新宿駅近くや入線の手前で切り替えることで問題ないと考えられる。 |
今どきの通勤電車は冷房車が当たり前なのですが、昭和の時代では 非冷房車が当たり前で夏季に窓を開けて走ってました。そこで昭和54年夏の旧4000形のスリット写真を基に窓の開け方を調べました。同形は2段窓で6両編成で片側44枚の窓があり、下段上段の窓が別々に開閉でき、更に窓上部の空間に格納できました。 その結果窓の開け方を8通りに分類できました。この中で最も多い開け方はどれだと思われますか。集計結果が次の図で5番目がダントツに多かったです |
ではなぜ5が多いのかについてフォロアーの方から次のような明快なコメントをいただきました。「5が多いのは、小田急では車庫(または駅)で係員が4の状態に窓開けするものの、座っている人も涼風を求めて5にするためだと思います。」 私も国電などで駅員さんが停車中に外から上段窓を上げる作業をしているのを見たことがありました。 普通は乗客の方が上段の窓を開けることは少ないのです。また、下段の窓が少しでも開いていると上段の窓を開けるための取っ手が下段の窓の後ろに隠れてしまい開けることができなくなります。また下段の窓を開けるにしても結構上げ方が難しく両脇に均等に力を入れてあげないと傾いて片側だけ止まったりしてうまく上がらないこともあったようです。 |
上の図の中で丸数字は集計によるカウント数を表していてNo5が一番多かったです。 |
スリットカメラの特徴の一つとしてスリットがありますが、着順判定カメラなどではこの幅を1/100㎜とかなり細くしていると聞きますが、自分の場合ではちょうど1㎜の幅にしています。スリットカメラはオープンシャッターカメラとも言われますが、撮影中シャッターは解放状態です。 ではスリットカメラの実際のシャッター速度はどう決まるかというとフィルムの移動速度とスリットの幅によって決まります。車両のLED表示撮影は点滅表示のためシャッター速度に影響を受けます。一般のフィルムカメラ、デジカメでもJR東日本の車両ではそれを1/100秒以下にすることで表示される通り写るようです。 1枚目の写真はJR東日本の近郊型電車E233系3000番台の先頭部を切り抜いたスリット写真です。この撮影では時速80kmで走行中の車両を135㎜レンズで30mの距離で撮影しているので、フィルム速度は10cm/秒となり、1/100秒相当のシャッター速度で撮影していることになります。つまり2枚目の写真のようにスリットの幅を1㎜にしていることはLED撮影のためにも適正な幅ということができます。 |
フィルムカメラを使っていた方であれば懐かしいものだと思いますが、カメラの裏ブタを開けてフィルムを装填する作業があります。一眼レフを改造したこのスリットカメラではフォーカルプレーンシャッタとフィルムの間にスリットを設けています。 現在、スリット写真を撮影されている方のほとんどが真横撮影のため先頭部の前面が写ることはありませんが、自分は少し斜め撮影することで前面の一部を写しています。この写真から行き先表示の「普通 上野」が問題なく読み取れます。ほとんどの方が真横撮影をしている理由の一つがこのLED表示問題があるからでしょうか。 |
幸いなことに節電のためかわかりませんが、このE233系などの側面のLED表示は一定速度に達すると走行中に自動的に消えてしまいます。しかしながらJR東日本以外の私鉄車両等のLED表示については走行中も消えないものもあるようです。 例えば京急電鉄の新しい1000形などの行き先側面表示装置はLED表示装置が使われています。この1000形の写真はフィルム式スリットカメラで撮影したもので、その表示装置の拡大写真を挙げます。その下にあるのがフィルム式スリットカメラ以外のスリットカメラで撮影した同表示装置の画像の拡大写真で 、まるで模様のような表示になっていて全く読み取れません。 ただ最近はLED表示装置もこのような問題を受けて改善されてきているようで、最近の装置では1/500秒以上でも欠けることなく写るようです。しかしデジタルスリットカメラやDVのつぎはぎ方式でどのように写るかはまだ確認しておりません。 |
戦後まもなくの最悪の車両火災事故と言われる桜木町事故は国電京浜東北線桜木町駅構内で発生しました。垂れ下がった架線にパンタグラフが絡みつき車体をショートさせたことから火災が発生して2両目まで延焼し多数の犠牲者を出しました。車両はモハ63系という鉄骨と木材でできた古い車両でした。乗客にはドアコックの所在も知らされず、ドアが開かず隣の車両にも移れない状態でした。その電車の窓は3段式で中央の窓が固定されていたため上下の窓は空きますが、その幅は最大で30㎝弱なのでそのような隙間では乗客は車外に脱出できませんでした。このような構造から多くの乗客が避難できず多数の犠牲者がでたのです。 写真の電車は73系で事故を起こした63系から改造された車両です。73系の窓も3段窓の構造ですが、この事故の教訓を得て真中の窓を固定せず開けることが出来るように改造されています。矢印のところを見ると真中と下の窓が共に上にあがっているのが見えます。 |
小田急通勤型電車2600形と5000形は小田急電鉄から既に無くなってしまった形式の車両なのですが、アイボリーホワイトとアーミーブルーのラインの入った塗装は昭和の時代から小田急色として親しまれてきました。そのなかで2600形はNHE車として昭和39年から製造され本線などで活躍してきました。5000形はその後昭和44年に登場した小田急らしい高性能の通勤型電車です。下の画像が2600形と5000形の先頭車の側面画像です。 |
この2形式は外観がとてもよく似ています。車両番号を隠してしまうとどちらの形式かホトンド解らないと思います。車両の前面が写っていれば分かることもありますが、この写真では写っていません。この写真の場合に両形式を区別できるものは2か所あります。一つは前面のスカートの切込みの有無であり、もう一つは台車の違いです。台車のブレーキシューを見ると2600形は内側のみの装着であるのに対し5000形は内と外の両側から挟みこむ形でブレーキシューがついています。 |
ベネシャンブラインドについて: ベネシャンブラインドというものは構造的には横長の羽(スラット)を上下に開閉するヨコ型ブラインドのことで、昔から事務所等で使われているものです。その構造のブラインドを鉄道車両の客室窓の二重ガラスの間に入れて客室内から操作できるようにしたものです。 このブラインドが採用されたのはサシ181形・481形などの在来線食堂車の他、381・581・写真の583系の客室窓に採用されました。しかし、国鉄末期まで保守の問題等で大半が普通のカーテンに取り換えられてしまいました。食堂車以外の列車名としては381系は特急やくも、特急しなの、583系では写真の特急はつかりがあります。 |
ベネシャンブラインド゙の使用状態: 最初の画像から四角い枠の画像を切り出しています。左の窓がブラインドを降ろしてない状態、次が1/3ほど降ろしスラットを閉めた状態、最後が下の方まで降ろしてスラットを水平にした状態です。このようなこと分かるのも普通のカメラにはできないスリットカメラ撮影ならではのことです。 |
581系の室内と操作用ハンドル: 客室窓が二重窓になっていて2枚のガラスの間にスラットが上下する仕組みで、ブラインドの操作は窓わきの赤丸で囲ったハンドルを回すことで行われました。スラットの開閉や角度調節もハンドル操作一つで可能でした。 |
電車というものは編成の両端の車体が左右対称(シンメトリー)にできているので、長い編成の前後の車両の床下機器もシンメトリーな配置になっているものと想像していましたが、実際は左右対称ではなくコピーしたような配置になっているものが新型車両で多く見受けられました。そして調べているうちにシンメトリーな配置はあり得ないと思うようになっていたのですが、実際に本当にシンメトリーな編成が見つかりました。それは昭和の時代に活躍した東武鉄道のデラックスロマンスカーでした。その画像をアップします。床下の抵抗器ばかりでなくそれに続く箱のような機器についても綺麗にシンメトリーになっています。その後、スリット写真で撮影した全国の国鉄・JR、大手私鉄等の車両についていろいろ調べたところ、最新の車両で近鉄の特急電車で「しまかぜ」や「ひのとり」なども同様な配置になっていることがわかりました。 |
最初は気が付かなかったのですが、以前にこの写真をアップしていて、これをご覧になったフォロアーの方から最近になってリプライがきて知りました。FBではこのようなことはありませんが、ツイッターでは過去の投稿や写真をご覧になった方から再度コメント等が来るのは珍しくありません。ウイキペディアで調べた結果、この2000形で製造初期に網棚の棒にもつり革がつけられたようですが、後にどういうわけか外されています。このようなつり革を付けた車両は全国的にも珍しく、貴重な写真となりました。 短いつり革が網棚の棒にも付いていれば、混雑時に掴まるのに便利ですが、そのような混雑した電車にはあまり乗りたくありません。 |
昭和53年8月にスリットカメラで撮影した東北本線特急やまびこの画像を見ていたら、食堂車の写真の左側の窓ガラスが破損してガムテープのようなものが貼られているのが見えました。そしてさらによく見るとその上の雨樋が2か所に渡り傷付いているのが見えます。 通勤電車ではたまにラッシュなどで窓ガラスが割れたのを見たことがありますが、特急用の車輛では初めてです。通勤用車両では割れたガラスのドア付近に職員が張り付いたり、乗客を近づけないようにしますが、この食堂車ではどういう訳か乗客が壊れた窓の座席に座って食事をしているようにも見えます。 雨樋の傷やガラスの破損は車体に外からの衝突物により生じたものと考えられますが、この食堂車の窓は2枚のガラスの間にブラインドが格納されているタイプのものなので、いわば二重ガラスの構造により外側のガラスの破損だけでは車内に危険が及ばないので、乗客が通常通り席を利用しているものと考えられます。 |
かつての国鉄時代に大量に製造された115系という近郊型電車には0番台、300番台、1000番台などという同じ115系の中でも製造年度等により形式の区分がありました。ところが東北本線で撮影された古いモノクロの115系の編成の中に「モハ114-823」というレアな車輛が写っておりました。 このモハ114形800番台は狭小トンネルの中央東線など用として低屋根用に全部で31両が新規製造され大半は必要な線区に回されたのに、なぜか小山電車区に残った車両なんです。 写真でもパンタグラフを乗せている屋根が低く設計されているのがお分かりになると思います。その後、これより小型のパンタグラフが製造されることで、このような低屋根構造の車両は無くなりました。 |
この写真は2014年12月に品川-田町間で撮影したものですが、この地域は高輪ゲートウエイ駅の開 業など再開発事業の地域で、広大な車両基地だったところの建物や線路が取り壊されているところでした。 写真の高架橋についても戦前に作られ計画が中止されていたため残っていたものですが、この計画は東京-品川間を新たに線路を増設して京浜東北線や横須賀線などを走らせることで輸送量の増加を図るというものでした。計画は中止され戦後になり京浜東北と山手線を分離することで線路を増やすことで現在に至っておりますが、この高架橋は建設途中のまま残されていました。 自分が高校生の時はこの写真の反対側の京浜第一国道が通学路だったため、通学途中いつもこの不思議な高架橋を国道側から眺め、どうして途中で切れているのか不思議がっていたものでした。 その後、この高架橋が取り壊されるという鉄道関係の記事を見て京浜東北線で通過したときに取り壊されるまでに車窓から何度もこの高架橋を撮影しました。 そしてその写真について何度も自分のツイッターやフェイスブックに掲載しておりました。 |
ところがが、最近になって昭和22年に撮影された【びっくり写真】こんなところで麦栽培!という朝日新聞に掲載された写真として自分のツイッターの記事を読まれたフォロワー方からupしていただいたものが次の写真です。これは終戦直後の食糧の確保のため空いている土地を耕して麦畑にしているというもので、この写真を見たときにすぐあの高架橋であることがわかりました。 この写真の右側は電車や客車の車庫が田町駅方面まで続いている場所で、工事が中止となり線路が敷かれていない高架橋に土を入れて畑にしたもののようです。その後いつまで耕作が行われていたのか分かりませんが、確かに上の写真の右側の方は樹が植えられていたり緑が多いようです。 |
朝日新聞フォトアーカイブより |
寝台特急北斗星のスリットカメラによる撮影は10年以上続けていましたが、撮影場所が自宅に近い川口市内なので終点上野に到着する10分ほど前のため、何度撮影しても食堂車には誰も写っていないのが普通でした。 ところが平成20年のある日の撮影ではたまたま食堂車に何人かの人がテーブルに座っているのを発見しました。そこで乗客がまだ残るこの写真としてアップしたところフォロアーの方からここに写っているのは乗客ではなく食堂車に勤めているコックやアテンダントのひとたちというコメントをいただきました。食堂車の営業が終わったので売り上げ計算をして日報を書いているところだというのです。 さらに北斗星を利用した人の体験談から上りの食堂車では食事が終わり居座っていてもこの川口駅から20分以上手前の久喜駅あたりでアテンダントの方から営業終了の声掛けがあるということも分かりました。 |
昭和42年12月末に四国を旅行した時に徳島県の小松島駅近くの客車区の片隅に止まっていた車両なのですが、貨車にしては運転台のような窓があり緩急車の一種かと思っていましたが、ネットにアップすることでその正体がわかりました。 これはヤ210形という3軸軌道検測車で、以前北海道で使われていたものがこの年に四国に転籍してきたばかりだったよう。まだこの時は稼働していない状態ですが、この後に昭和51年1月には廃車になったとのことで、この画像はかなりレアもののようです。 |
昭和30年代の高校生の頃、羽田空港から来る京急バスに急行の東京駅八重洲口行きがありました。空港から一般道を使い大森駅経由で鈴ヶ森のインターから首都高速に乗るというものでした。ちょうどこの写真のようなバスで、今のようなバスと異なり観光バスのような乗降扉が運転席横の1箇所のもので、女性の車掌さんも同乗していました。 この写真の京急バスは行先が「川崎駅」となっていて、羽田空港行きではありませんでした。バスに詳しい方に教えていただいたのですが、昭和40年までは都バスも同じルートでこの京急バスと同じ川崎駅までの路線バスを運行していましたが、都バスが無くなってからも京急バス独自で昭和45年まで川崎駅行きを運行していたようです。昔は比較的道路が空いていたので長い路線も維持できたのですね。 羽田空港からの東京駅八重洲口行きですが、昭和40年頃までは運行していたようです。自分は大森駅で降りて国電に乗り換えていたのですが、あるとき居眠りしてしまい運転手さんに頼んで高速道路に入る少し手前の大森海岸駅付近で降ろしてもらったという苦い経験があります。 |
【尾瀬の山小屋】
ひのえまた小屋 |
第二長蔵小屋:1階に土産物売り場があった。 |
弥四郎小屋:1階には喫茶店があった。 |
燧小屋 尾瀬の見晴らし地区にある山小屋について昭和52年8月4日の夜にトライエックスという高感度フィルムを使って夜間の撮影を行ったが、最近までこれらの写真の山小屋の名前がわからなかったが、尾瀬で活動されている方から写真を見てそれぞれ教えていただいた。 しかし山小屋の名前は分かったが、困ったことは自分が宿泊した山小屋がどこだったのか全然覚えていないことだ。夏とはいえ野宿するはずもないので何処かに泊まっているはずだがずっと思い出せないでいる。 最近になってこの当時の旅行に携帯していたメモ帳が偶然見つかった。その中には尾瀬旅行のルートや支出明細など書かれていて、尾瀬で泊まった山小屋は「尾瀬小屋」であることが分かった。尾瀬小屋は残念ながら写真は残っていなかったが、宿泊費が3850円ということが書かれていた。 |
尾瀬に行くときはフィルムカメラをいつも持っていくが、いつもフィルムは完全に使い切らないで1~2枚は残している。このときも尾瀬の帰り道で当時の国鉄の或る駅で通過列車を待ち合わせている時に撮影したものだが、駅名等は思い出せないでいた。しかしこの写真をアップすることで写真の右側の駅名標が「蓮田」であることを教えていただいた。 またこのEF57重連の列車も上野発の一ノ関行きの123列車であることも分かった。この昭和50年8月の尾瀬旅行のときの帰り道では鳩待峠から沼田に抜けて帰っていた。 |
これは約50年前に撮影した東武伊勢崎線のレールの一部で、2本のレールの外側にU字型の線が取り付けられていたので、当時これが何かわからなくて写したもののようでした。 鉄道用のレールは暑さなどによる熱膨張が原因のレールの変形を防ぐためにレールを一定の長さに切断して隙間を開けてレール同士をつなげていますが、これだとレール同士の電気的抵抗が大きく電車のモーターを動かす電流がスムーズに流れないので、細くて柔らかい銅線をよったレールボンドなるものを切断されたレール側面に電気溶接することでレール同士の電気抵抗を低く抑えています。 なお、この写真をアップしてから分かったことですが、伊勢崎線に使われているレールは現在は幹線用の50Kgレールですが、接続金具の状況などから当時の使われていたレールは支線用に使われるもっと軽いレールのようだとのことでした。 |
最近の通勤電車などではスタイルや機能にこだわるためか電車の先頭に貫通路が付くタイプが少なくなっているが、国鉄時代の電車では貫通路タイプが普通に見られた。そこで例えば基本の10両編成に5両編成を増設する場合には、基本編成の前後に増結編成を連結して運行していた。 その場合、単に車両を連結するだけでなく車両同士を幌でつなぐことで乗客が車両間を行き来できるようにしていた。これは昔の鉄道事故の教訓から非常時に乗客が隣の車両に移動できるようにしなければならないためのようであった。 |
ところが115系の15両編成の場合、基本編成の7+4両の連結面については前の写真のように幌が装備され乗客も車両間を移動できていたが、増結分の4両編成についてはこの写真のように連結面の幌が隣の車両に渡されていない、つまり「幌はずし」が普通に行われていた。この状態では乗客は車両間を移動できないでいた。 これは編成の増結や切り離しが終点の電車区で頻繁に行われるため作業の短縮や人手不足によるものと思われる。最近のJR特急型電車ではこの幌の取付作業も自動で行われる車両が登場しているが、JRの通勤電車では地方に行くと貫通路タイプもまだ残っているようであるが、最近の通勤型車両は貫通路がないタイプなので、このような状態での運用は全て無くなっている。 私鉄では東武鉄道が昔から増結車両の幌取付を地道に行っているが、小田急など他の私鉄では貫通路タイプの車両でも幌自体を取り付けていない車両がほとんどで、またJRと同様に貫通路のないタイプの車両が増えてきている。 普通のカメラでは走行中の編成の中間車両の連結部分など撮る人もいないし撮ることもできないわけだが、編成の全側面を撮影できるスリットカメラで撮影したからこそわかった事実である。 |
2018年4月のラストランで引退した中央線のE351系特急「スーパーあずさ」では制御付き振 子列車が最長の12両編成で運転されていた。 そのパンタグラフは台車直結の支持台に載せ る方式が考案され、後にJR九州の883系と885系でも採用されたが、いずれも日立製である。 写真はE351系、883系、885系の順 |
E351系では台車とパンタの台座を直結する柱のようなものがはっきりと見えます。 |
JR九州883系交流特急型電車 |
JR九州885系交流特急型電車 |
6扉車の登場は平成2年末の山手線の11両化から始まり、京浜東北線などの他線区等に広がりを見せましたが、混雑状況の緩和やホームドアの設置のために最後まで残っていた総武緩行線の6扉車についても2020年3月で運用から離脱しました。6扉車は言わば平成という時代を駆け抜けた車両だったと思います。 |
【東武鉄道デラックスロマンスカー1700系と1720系の違い】
この写真は東武鉄道の1700系(モハ1706)と1720系(モハ1726)で昭和51年に撮影しました。昭和31年に登場した1700系はこれとは全く別の風貌をした電車でしたが、昭和35年になって新に登場した1720系と同様な電車とするために昭和46年に台車や床下機器類はそのままで新たに1720系と同じ車体に取り換えられました。この2つの写真をご覧いただければ、その違いがお分かりいただけると思ます。 |
なお、台車についてはその後1700系も1720系と同じものに交換されております。 |
撮影は1995(平成7)年3月5日で電気街口ではアキハバラデパートも見えます。ここの3階のデパート口の改札もよく利用しました。この年の年末にはWindows95が発売になった年で、この秋葉原でも発売のイベントが行われていました。 |
正面が1枚目写真の駅前の電気街口です。この日は日曜なので歩行者天国の車道から写しました。お店の宣伝を見ても当時はパソコンの街、秋葉原でした。 |
3枚目は昭和通口です。日比谷線の出入り口も見えます。この年は間もなく地下鉄サリン事件が起こった年でした。日比谷線もサリンを運んだ実行犯が乗車した路線の1つでした。 |
普通のカメラで長編成の列車の中間車などを撮っても、撮影角度の不揃い、車両の大きさの不揃い、周辺に余計な風景や必要ないものが写ったりで、撮影したコマ写真を並べてもなかなか比較しやすい画像になりません。 その点、スリットカメラは撮影場所が異なっていても車両だけがほぼ同一の大きさで撮影できるので、車両同士の比較写真が簡単に作成できます。この点を考慮してJR115系の比較写真を作りましたのでご覧ください。 |
115系比較:東北線関係で見られたのが115系0番台、300番台、1000番台で比較しやすいように側面写真を並べてみました。同じようでよく見るといろいろなところに違いがあるようです。最初にクハ115をアップします。 |
ざっと見ても屋根上の配置クーラの違い、トイレ付近の窓の形状等の違い、ドアのHゴムの色の違いなどについて容易に比較することができます。 |
1968(昭和43)年6月21日に京急と都営地下鉄の直通運転が開始されました。この写真はその日に撮影したもので都営5000形の急行京浜川崎行きが泉岳寺方面から京急の品川駅に向かって来ているところです。右側の急行を表示する幕が壊れていて中の蛍光灯が見えています。初日から小さなトラブルですね。 |
2018(平成30)年7月に撮影した上の写真と同じ場所です。約50年後に同じ場所で撮影しました。同じ都営地下鉄ですが、50年後は都営5200系が走っていました。またその行先は京急川崎ではなく羽田空港です。 |
昭和43年6月21日の泉岳寺駅です。泉岳寺駅は南北に出入口がありますが、これは南側の品川寄りの改札口です。地下鉄線内は初乗りは30円ですが、当時京急線内は初乗り運賃は20円でした。またこの時は西馬込方面はまだ開通していません。 |
同じく50年後の平成30年7月に撮影したもので同じ泉岳寺駅の品川寄りの改札口です。50年後の違いは自動改札や券売機等の違いがありますが、このほか天井が低くなっているのは駅の冷房化工事によって配管等を天井内に取り付けているためです。この泉岳寺駅は昨年開業した山手線の新駅「高輪ゲートウエイ」駅に近いため駅の改良工事が行なわれていて、将来、新駅まで地下通路により往来ができるようになるようです。 |
これは平成元年5月に秋葉原駅の京浜東北線南行のホームで撮影したものです。遠景を見ればわかるようにこの当時の秋葉原は電気街の街でした。国鉄からJRになって数年ですが、JR駅の駅名標について国鉄時代のひらがな中心の駅名標からカラフルな駅名標に替わっていった時期でした。当時新宿駅とこの秋葉原駅が最初に新しい駅名標に変えられたとのことでした。 ところがこの写真をアップしたのちにこの駅名標の製作に携わったと思われる方からこれが試作品であることを明かされました。細長い駅名標ですが下の部分をよく見るとわずかですが板自体が湾曲しているのです。量産化された新しい駅名標はこのような湾曲はないようです。また古い駅名標にも付いていた「山」や「区」の記号もまだ未記載でした。 |
平成28年9月7日に秋葉原駅の同じ京浜東北線の駅名標を撮りに行きましたが、やはり試作品である駅名標は取り替えられその形が変わっていました。また、ちょうど駅名標の真下で工事が行なわれていたので以前とは同じ位置での撮影はできませんでした。上の屋根も工事で変えられたようで取付場所の移動もあったかもしれません。現在の駅名標は全体が黒い枠で囲まれ字の色も濃くなっています。 |
特急型電車で側面の窓が開閉できる車両としては国鉄時代に製造された185系ぐらいしか思いつかなかったのですが、Twitterの情報で小田急のSSE(SE)車も元々非冷房車としての設計だったので窓も開閉可能な設計だったことを知りました。
ただし昭和59年に行われた車体更新工事後は窓が固定され開閉できない構造になったようです。 そこで自分がスリットカメラで撮影したSSE車は昭和54年頃だったので撮影したいくつものスリット写真を精査したところ1箇所だけ窓が開けられている車両の画像を発見しましたのでアップしました。左側の車輛の左から2つ目の窓がわずかながら開いているので、ご覧ください。
撮影時は日差しが強い晴天で日差しの当たる側の窓ではカーテンが多く下げられていますが、窓を少しでも開けているのはこの3031編成の中でこの1箇所だけでした。このように窓がほとんど開けられていないのは、乗客の方が窓が開くのを知らないのか、それとも車内に冷房が入っているので開けないのかわかりませんでした。
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京急の旧1000形は昭和30年代に登場していますが、初期の頃の車両では2段式の客室窓の下段が上の方に全開したことから、窓から手や体の一部が出て危険なことがないよう下段の窓に2本の保護棒が取り付けられていました。この写真にも側面の窓に2本の保護棒が取り付けられているのが見えます。その後、車両の下段の窓について全開しないように改良工事がされたことからこの保護棒についても取り払われています。 話が変わりますが 線路の向こうに見える乗用車は初期の日産「ブルーバード」ではないでしょうか。 |
昭和42年9月の関西撮影旅行の写真をアップしようとしたが、撮影場所が阪急のどの路線のどこの駅なのか全く分からないので、駅不明ということでアップさせていただいたが、間もなく関西の地元の鉄道ファンの方から詳しく教えていただくことができた。この写真は宝塚線の服部駅(現在の服部天神駅)であるという。電車は後追いで池田に向かっていることがわかるが、先の線路が左にカーブしていることや構内踏切があることが決め手となったようだ。 |
この写真も上の写真に続くコマとして写っていたが、場所は阪急最大の駅である梅田の7番線のホームとのことである。自分はてっきりどこかの途中駅と思っていたが、この時は発車時間前なので運転士も姿が見えないときであったようだ。またこの時は架線電圧が600Vのときで翌月に1500まで昇圧する時期でこの3000系の電車は床下のナイフスイッチを動かすだけでそれができたようだ。 |
これは数年前にグーグルのストリートビューで琴電の志度線を捜していた時に同線のレールの上を移動できるビュー画像で現在の房前駅をキャプチャしたもので、ホームが延長されたり駅名標や待合室も新しくなっていた。下の写真と撮影位置が近い。 |
これは昭和42年12月に四国旅行に行ったときに志度線の房前駅で撮影したもので、ホームには廃車となった単車のボディが待合室代わりとなっていた。この車両を調べたところ琴電の前身の東讃電気鉄道の車輛であった。昭和30年代に廃車となりここまで牽引されてきて、ボディだけ再利用するためホーム上に移動されたものであろう。 |
昭和53年4月に久喜駅構内で撮影しものだが、SNSにアップしても久喜駅で駅弁等の販売について知っている方は誰もおられなかった。古い時刻表を見ても戦前には1件弁当屋があったようだが、戦後以降は存在していないようだ。この販売員の運んでいるものも弁当ではなくお菓子や飲み物のようだ。国鉄退職者など久喜駅に親しい人が請け負って構内販売をしていることが考えられた。 ただそれとは別に現在の久喜駅利用者が驚いたのはホームと電車のドア下との段差であった。 |
これは昭和42年4月末に京急品川駅の運賃表を撮影したものの一部だが、料金表は品川駅を起点に始まり当時の終点三浦海岸駅まで掲載されていたが、さらにその上に日東交通線として8つの駅名と料金が書かれていた。この運賃表では京浜久里浜駅が久里浜港まで結ばれてさらに点線で金谷にまでつながっていた。これは東京湾フェリーを利用して房総半島につながるものと理解できたが、日東交通線とは聞きなれない名前だった。 |
当時の房総半島の南房総の地域は国鉄の路線が敷かれていたが非電化のローカル線であった。これは現在の内房線であるが、当時は単線で短いディーゼルカーが走っていて列車本数も少なく、とても便利と呼べるものではなかったと思われる。ということでこの日東交通線というのは房総半島南部を走る定期路線バスのことだった。京浜久里浜から金谷までは東京湾フェリーだが実質185円(385-200)が当時のフェリー片道料金ということだ。まだ東京湾アクアラインもなかったので房総半島南部への近道ということで自動車によるフェリーの利用が多い時期だった。なお、最近は以前に比べ利用者が減り経営が悪化しているようだ。 |